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体の造りは残酷なまでに熟知している。
暗部で身につけた知識だ。
手足や腹部、背中などは日常生活に使う筋肉があり、そこを傷付けるのは日々の暮らしに支障をきたす。
骨がある部分か、間接部の内側がいい。
短刀の刃を起こしてするりと鎖骨の上を滑らせる。
胸筋を覆う滑らかな肌の上を血の丸い粒が転がり落ち少しずつ赤い筋をつけていく。
その赤い玉を舌先で掬い、カカシは大切に一つずつ口の中におさめる。
赤く濡れたカカシの唇をイルカは舌先でなぞる。
カカシが任務で人を殺めた後はイルカが罰を受ける。
カカシの罪まで一身に背負って。
イルカが望んだ事だ。
カカシは言われるままにイルカの身体に傷を刻む。
少し刃先を鎖骨の下に深く潜らせると血の玉は一筋の流れとなってイルカの胸を濡らした。
「みっつ・・・」
イルカは揺り篭に揺られる赤子のように安らかな、無垢な顔をしている。
カタリとサイドテーブルに小刀を置いた。
「終わりだよ」
血塗れて横たわったままのイルカをカカシはきつく抱きしめる。
力無い手でイルカはカカシを抱き返す。
これが本当にイルカの救いになっているのだろうか。
イルカは、今。
子供たちの前で罪の意識から解き放たれて心から笑えているのだろうか。
カカシの不安は現実のものとなった。。
「先生・・・。イルカ先生に、何をしているの」
緑の澄んだ目が真っ直ぐにカカシを見据える。
可哀想に。
聡いサクラ。
ナルトはもちろん、サスケも気付かなかった恩師の変化に一番に気付いてしまった。
「イルカ先生が、どうかした?」
「今日、アカデミーで倒れたわ」
弾かれたようにカカシは駆け出した。
背後でサクラが何か叫んでいたが、カカシの耳は一切の音を拾う事が出来なかった。
耳鳴りと共に、自分の心音が煩わしいほどにうるさい。
アカデミーの医務室で青白い顔をしてイルカは横たわっていた。
酷い貧血だとひと目でわかる。
昨日は増血剤を飲ませて安静にさせて、今朝には回復していたはずだ。
今日は一日アカデミーで授業があるといっていた。
体力を削がれる仕事は特になかったはずだ・・・。
その時ふと、真新しい血臭が鼻をついた。
カカシが止血した上から塗り替えられた傷。
イルカの自傷が再発していた。
「イルカ先生・・・・。最近ずっと変だった・・・・」
追いついたサクラがカカシの隣に立つ。
「サクラ、あいつらには言わないで」
サクラは何処まで気付いているのか。
黙っておいて欲しい。
必死になって、せめて子供達の前でだけは笑っていようとしたのだから。
今までそう、務めてきたのだから。
「カカシ先生がやったの?!」
「サクラ」
半分はその通りだ。
カカシは反論しなかった。
「どうして?イッ・・・、イルカ先生の事が好きなんでしょう?どうしてそんな事ができるの!」
聡明なこの少女は、気付かなくても良い事まで気付いてしまう。
カカシ自身ですら今までぼんやりとして輪郭がはっきりしなかった事を。
「うん・・・・。好きだよ・・・・」
好きだとか、そんな生温い感情ではない。
見つけてしまった。痛みを分かち合える半身を。
自分はイルカでなければ駄目だ。
イルカがいれば、生きていけるのか。
イルカがいれば、安らかに逝けるのか。
自分達はどちらに向かっている?
「連れて帰る」
「先生!イルカ先生に乱暴しないで!」
「サクラ、この事は黙ってて」
緑の瞳が驚きに揺れた。
その後すぐさま澄んだ目に涙の膜が張る。
立ちすくむ少女に安心させる言葉をカカシは言ってはやれなかった。
「ごめんね・・・」
「どうして・・・?」
澄んだ緑の目からはハラハラと涙が零れ始めた。
どうしてかなんて。
どうしてこれほどに惹きつけられるのか。
どうして離れる事が出来ないのか。
理由など、もうどうでもよかった。
肩を震わせて涙を堪える少女を置き去りにして、カカシは腕にイルカを抱き医務室を後にした。
「先生、辛いの?」
ふうっと意識が浮上して、イルカは目覚めた。
イルカは青い顔をして、自ら傷付けた腕をぐっと包帯の上から掴む。
自分の行いにショックを受けているのか。
「・・・ごめんなさい。俺は、ちゃんと元通りになりますから。これまでのように子供達の世話をして、子供達を守っていきますから。ちゃんと、子供達の前で笑えるようになりますから・・・・」
息が詰まるほど、カカシはイルカを抱きしめた。
それはもう、きっと叶わない。
限界だったのだ。
決壊した心は元には戻らないだろう。
それほどにイルカは自分の心を殺して、無理をしすぎた。
決壊の引き金になったのは、自分だ。
「いいよ・・。もう、いい。笑わなくても・・・・。辛いなら笑わなくていい」
カカシの言葉に堰を切ったようにイルカは泣き始めた。
「俺は・・・。ごめんなさい、俺は・・・・・」
しゃくりあげながらイルカは懸命にカカシに訴える。
「俺は、あなたに酷い事をさせてばかりで・・・・。でも、俺にはあなたしか・・・」
「わかってる。俺もあんたじゃなきゃ駄目だから」
腕の中でイルカの身体の強張りが解けた。
「俺の全部、あんたにあげるよ」
謝らないでくれ。
自分はイルカと出会って確かに救われたのだから。
早朝の演習場で出会ってから、わずか数ヶ月の出来事だった。
数年を凝縮したような濃い時間を二人は過ごした。
此処を訪れるのも最後だと思えば、感慨深いものがある。
どのような形であれ、目の前の人物もイルカを守ろうとした事には変わりない。
何が正しかったのか、何処で間違えたのか。
そんな事を議論しても結果論に過ぎない。
イルカは自分を望んでくれた。
だから自分は全力でそれに応えるだけだ。
「三代目。三年前に貰えなかった恩赦をいただけませんか」
痛ましげに歪んだ里長の顔は最近は見慣れてしまった。
無言で頷く火影にカカシは深々と頭を下げた。
その年、初夏に差し掛かる頃他国で大きな戦が起こった。
里は依頼に応じて上忍、中忍、数十名から編成される部隊を戦地に送り込んだ。
戦は秋の終わりに終結し、一人の生きた英雄の名前が慰霊碑に刻まれることとなった。
完全なる勝利に終わったはずの戦は、里に大きな代償を払わせた。
里は高名な忍の死を大いに嘆いたが、その下にひっそりともう一つの名が刻まれた事を悲しむ者はごく僅かだった。
それも数年の月日が経ち、やがては人々の忘却の彼方となった。